惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㉝)

 

「細川家記」によれば、ある書物によると、秀満は濃州の生まれであ

り、五器塗師子供であったとあります。

他書からの引用であることがわかりますが、同書によれば、三宅弥平
次(秀満)は容貌が美しく、光秀の寵愛を受け、成長して後は、その利
発さと勇猛さで光秀の信任を受けたとあります。

五器とは、近江日野の塗器の事で、濃州の生まれであることと矛盾が
あるようですが、光秀が刀鍛冶の息子であった、との説もあるぐらいで
すから、参考資料程度のものなのでしょう。

秀満は、明智資料㉛以外にもうひとつ、天正九年十月六日、天寧寺宛
に、諸役を免許する判物文書を発給しています。

秀満が、福知山城城代として、民政を担当していたことがわかります。

当寺之事、光秀判刑之旨無相違、諸色令免許訖、被其意、
可被任覚悟者也、仍如件
                    明智弥平次
天寧寺  納所禅師                  秀満(花押)

これにより丹波国内における光秀の支配を、同地区においては秀満
が分担して、うけおっていたことがわかります。


天寧寺
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