本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㉝)
「細川家記」によれば、ある書物によると、秀満は濃州の生まれであ
り、五器塗師の子供であったとあります。
他書からの引用であることがわかりますが、同書によれば、三宅弥平
次(秀満)は容貌が美しく、光秀の寵愛を受け、成長して後は、その利
発さと勇猛さで光秀の信任を受けたとあります。
五器とは、近江日野の塗器の事で、濃州の生まれであることと矛盾が
あるようですが、光秀が刀鍛冶の息子であった、との説もあるぐらいで
すから、参考資料程度のものなのでしょう。
に、諸役を免許する判物文書を発給しています。
秀満が、福知山城城代として、民政を担当していたことがわかります。
当寺之事、光秀判刑之旨無相違、諸色令免許訖、被其意、
可被任覚悟者也、仍如件
明智弥平次
天寧寺 納所禅師 秀満(花押)
これにより丹波国内における光秀の支配を、同地区においては秀満
が分担して、うけおっていたことがわかります。
天寧寺