本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㉞)
室町幕府政所代蜷川親俊は、曾祖父、祖父同様に日記を残して
います。
「蜷川親俊日記」はその大部分が失われており、完全に残ってい
るのは、天文七年(1538年)、八年、十一年の三年にすぎません
らの動向を知ることが出来ます。
傾き始めた室町幕府ですが、親俊の時はまだその組織がそれな
りに機能していたことがわかります。
が、公家化していたことが窺い知れます。
親俊は後に、親世と改名しますが、親俊の妹が、齋藤利賢に嫁ぎ
、光秀重臣齋藤利三の母となります。
その母であるとも述べられています。(徳川実記)(光秀とその日
常③)
いずれにしろ、利三の血脈が、室町幕府の中枢と深く関わってい
たことには疑いがありません。
利三の事は、春日局の影響によるのか、不都合な事は光秀との
関係性を含め、封印されており、闇の中に放り込まれています。
齋藤利三屋敷跡 曽根城