惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㊵)

 

丹波国には波多野氏、赤井氏、内藤氏等の有力な国人領主が存在し

、宍人城を拠点とする小畠氏もその一つでありました。 

小畠氏は細川氏の被官としてこの地に勢力を拡大しました。

その後は三好氏、波多野氏に従属していましたが、信長が義昭を奉じ
て上洛するとその傘下に入り、波多野氏らが信長から離反する中、一
貫して織田方として活動し、光秀の丹波侵攻戦に貢献しました。

天正三年六月十日、十七日に信長は、小畠左馬助、小畠助太夫宛に
朱印状を発給し、光秀の丹波出兵に対して貢献があったことを賞し、
光秀への協力を命じています。(小畠文書)

光秀は信長の上記朱印状に添書きを付け、小畠左馬進に対して、知
行地安堵と一層の忠節を命じています。

困難の多い光秀の丹波侵攻戦でしたが、小畠一族は織田方として活
動を続け、光秀の傍にあって犠牲者もだしていました。

天正七年二月六日付けの書状で、光秀は小畠一族に対して、小畠越
前守の討死後、嫡男伊勢千代丸が幼少の為、森村左衛門尉が補佐し、
一族で支えるよう命じています。

伊勢千代丸には明智姓を名乗らせ、森村と一族全員から誓紙をとる念
のいれようで、光秀の几帳面さと気遣いがみてとれます。

小畠氏は、光秀の丹波制圧後は家臣団に組み込まれ、後に園部藩士
して家名を存続させます。

このように、光秀の丹波における家臣団の構成は、織田方に協力しその
まま所領を安堵された小畠氏のような地侍と、城代にまで出世した、明
智秀満や齋藤利三らの従来の家臣、そして蜷川氏のように旧幕府奉行
衆や奉公衆の家柄の者で、新たに所領を丹波に与えられた人々で成り
立っていたと思われます。(四人の天下人㊴)

宍人城主郭北堀跡
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