惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㉓)


「言継卿記」は、元亀三年から天正三年までの四年間が、完全に欠

落しています。

元亀二年十二月二十九日付の記述に

村井民部少輔、霜當ヘ羅出之由、申立見舞、細兵、明智
被呼之、茶湯之云々。

とあり、光秀らと茶の湯を楽しんだとあります。

更に同日

成刻、明智十兵衛可為不辧之間申、二百疋送立、不寄思之儀也。

とあり、光秀が二百疋を言継に送ったようで、思いもよらない事
であった、と述べていますが、詳細は不明です。

これを最後に日記は、天正四年の正月まで欠落しています。

想像をたくましくすれば、この期間に何か不都合な記述があり、
言継は天正七年に死去していますので、山科家の人により、処分
されたのかもしれません。

いずれにせよ、最後の大きな欠落部分が、光秀に関する記述のあ
とから始まるのは興味深い事です。

二百疋とは、現在の貨幣価値でいうのは難しいですが、江戸時代
前期の計算では、一疋=100円として、二万円となりますが、感
覚的には、もう少し多額な金銭であっただろうと想像します。

山科言継は、正親町天皇のもとで朝廷の財政再建に尽力します。
その中で、多くの武将との交際が生まれ、荒波にもまれますが、
その日記からは、見識の高さと、気さくな人柄が垣間見られます。


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