惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料㉘

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この連署書状には、右から、柴田勝家佐久間信盛滝川一益、そして
明智光秀の名があり、この四人連名で、元亀三年卯月(四月)四日に発
給されています。

河内国交野城主片岡孫太郎宛に、織田勢河内出陣の折、戦いの用意に
奔走すべき旨伝えています。

恐らくは、勝家か信盛の祐筆が全体を作成し、名前まで書き込んだ下に
各自が花押を入れ込んだと思われます。(紅色線の所)

月日の下に名があるのが実務責任者で、勝家がその任にあったことが
わかります。他は今で言う連帯保証人みたいなものでしょうか。

四角く囲んだところが光秀で、明智十兵衛尉と書かれ、その左に光秀と
あり、その下に花押があります。
書状作成後、勝家の馬廻りが、それぞれの陣営に、頭を下げて花押を貰
いに回ったのかもしれません。

それにしても、織田家に入社三年目で、副社長級の勝家や信盛と共に書
状にサインするとは、この時代でもなかなか考えにくいことでは、と思われ
ます。

この光秀の花押が本物であることは、前年和田秀純に送った書状の花押
と全く同一であり、近江と河内の距離的な事や、一年の時間差を考えて
みれば、偽造できる可能性は少なく、間違いないと思われます。

黄色の線で囲った所が、光秀の花押です。消えかかっていますが全く同一
であることがわかります。

和田秀純宛書状

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