惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㉒)

 

「言継卿記」の永禄十三年(元亀元年)一月二十六日付の記述には

明智光秀に関して、以下のように述べられています。

未下刻ヨリ奉公衆方、年頭ノ禮二能向、路次次策、竹内冶部少輔
、三淵大和守、-----、曽我兵庫頭、明智十兵衛(濃州ヘ下
向云々)----(酒有之)竹田法印ーーーーーーー

山科言継は、奉公衆明智光秀の所を訪問していますが、あいにく岐
阜へ行っていて留守だったようです。

酒好きの言継さんらしく、竹田法印のところで、一杯いただいたよう
です。

言継にとって、明智光秀はこの時期、幕府奉公衆の一員であったこ
とがわかります。公卿たちにとっては、光秀は足利義昭の家臣であ
るという認識のほうが強かったのでしょう。

永禄十二年、秀吉とともに発給された書状は、月日の下に秀吉の名が
があることで、責任者は秀吉であることがわかります。(明智資料③)

織田方からは秀吉が、そしてそれを担保するものとして、義昭側から
光秀が、その名を書状に残していると考えられます。

綻びが見え始める以前の、信長と義昭の関係性を示していますが、光
秀が古参の幕臣であることを、示す資料は何も存在しません。

しかし光秀が以前から、幕府と係わり合いのあった人物であることは、
疑いないことでしょう。

この時期の光秀は、織田家から、将軍足利義昭のもとに出向していた、
中途採用の新入社員であるというのが、一番妥当なのでしょう。
この重責に耐える能力を、光秀はどこで身につけたのでしようか。