惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㊳)

 

明智家家臣として、領内で文書を発給した人物は、明智秀満、齋藤

利三以外には、三沢秀儀があります。

この三人は光秀重臣として、史料の中でその実在が確認できます。

天正四年二月十日付けの、光秀の曾根村惣中宛の、諸役務を免除
する書状に秀儀は添書きをし、惣代に対し光秀に対する奉公を褒め、
田畑の安堵ならびに諸役の免除を伝えています。

秀儀は秀次ともいい、織田氏の越前侵攻後は、光秀の代官として、
在住していたといいます。光秀の与力であったといわれますが、上
記の発給文書を見る限りでは、ある時期から、重臣のひとりに組み
入れられていたと考えられます。

これらの経歴をみると、その地位は高く、活動も断片的ながら把握で
き、三沢秀次も光秀の側近の一人であっただろうと推測できます。

この三沢秀次が、山崎の戦い切腹した光秀を、介錯した溝尾茂朝
であるとの説がありますがその詳細は不明です。

この三人以外の光秀の主要な家臣となると、存在は確認できるがそ
の活動は不明であったり、存在すらも疑われるものが多く、全容は把
握できていません。

又断片的ですが、当時の良質な史料の中に光秀の家臣が登場します
が、光秀との関係性が特定できるものは、明智秀慶らわずかです。