惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㊱

 

山科言経は言継の子で、日記「言経卿記」を残しています。父親ほど

筆まめでないのが残念ですが、その私生活は劣らず波乱万丈でした。

父の死後、正親町天皇との間で、その所領同士での年貢の事で問題
があり、天皇の怒りを買い、勅勘を蒙り都を追放される事となります。

しかし同時期に、冷泉為満、四条降昌も勅勘を蒙っているので、その
理由は不自然であり、真相は闇の中です。

もしかしたら、この三人は天皇と対立する、誠仁親王に近いグループで
政治的理由で、朝廷内部から排除されたのかもしれません。
誠仁親王は、この翌年天正十四年世を去ります。(四人の天下人⑬)

言経は、縁戚関係のあった本願寺の庇護をうけ、父譲りの医業で生計
をたてます。

出奔した言経にかわり、山科家は新たに当主をたて再興されます。
その後、言経は徳川家康と知己を得、その助力で山科家当主に復帰
します。

言経が山科家に復帰することで、新たに当主となっていた教利はその
座を追われ、都の猪熊小路にちなみ、猪熊家を創設し猪熊教利を名乗
ります。

この教利は芸術的才能に優れ、和琴の名手であり、後陽成天皇の側
近として仕えます。

稀代のイケメンであった教利を、宮中の女官たちは、ほうっておきませ
んでした。又この教利自身も「当代記」内で、「公家衆乱行随一」と記
されているように、女癖の悪さは群を抜いていました。

教利は、後陽成天皇の愛妾広橋局に興味を持ったり、多くの女官と不
義密通を重ね、とうとう天皇の知るところとなり、その怒りを買い、これ
もまた勅勘を蒙り、大阪へ逃亡します。

ほとぼりが冷め、都に舞い戻った教利は、ここで猛反省しておけばいい
ものを、更にパワーアップして、好きものの公卿らを誘い出し、女官ら
との乱交を重ねます。

しかし、ど派手な乱交パーティーの噂は、ほどなく天皇の耳に入り、そ
の怒りは極限に達し、天皇は参加者全員を死刑にせよと厳命しました。

教利は朝鮮に逃亡しようと画策しますが、逃げ切れず捕まります。

結局、教利と手引きした歯医者の二名が死罪となり、他の公卿、女官は
流罪となりました。
左近衛権中将大炊御門頼国は、硫黄島へ流刑となり、他の四名の公卿
もそれぞれの流刑地に流されました。

広橋局をはじめ、五人の女御たちは伊豆新島へ流され、赦免の勅が出
たのは十四年後の元和九年の事でした。

自業自得とも言えるのですが、教利の悪癖に付き合ったせいで、とんで
もないことになったものです。

しかしこのイベントに参加していた、参議烏丸光広は恩免をうけ、流罪
を免れます。
光広は細川藤孝から、古今伝授をうけたといわれ、和歌の名流の家柄で
した。

その才を惜しんだ有力公卿たちが奔走し、蟄居となったといわれます。

全員死刑だと息巻いた後陽成天皇は、自分の主張が受けいれられず、
すっかりやる気を失い、退位を望みますが、弟宮の八条宮智仁親王は、
かって秀吉の猶子であったことがあり、徳川幕府はその退位に同意し
ませんでした。

この一聯の騒動を「猪熊事件」といい、その再発防止を目的に、後に
「禁中並公家諸法度」が作られることとなります。



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