本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㉘)
吉田兼見は、本来は兼和といい、天正十四年、後陽成天皇即位にあたり
天皇の諱である和仁を避けて、兼見と改名しました。
その足跡に関しては、彼の残した日記「兼見卿記」により、詳細に知るこ
とができます。
で食事中に突然死去します。
やされたといっても過言ではありませんでした。(光秀とその日常⑬)
るように、仏教の影響下にあり、その一部として組み込まれている状況を
現在の日本の姿がそれにあたりますが、神仏習合が一般的であった当時
では、斬新な考えとして秀吉を始め、権力者から支持を得ます。
秀吉の希望で神として祀られたのか、豊臣政権の総意として秀吉を神に祀
り上げたのかは不明ですが、神廟豊国社が創建され、兼見が豊国社別当
て豊国社はスタートしました。
といえるかもしれません。しかし豊臣から徳川へと時代が移り変わる中で
、兄兼見に代わり別当に就任した梵舜は、度重なる苦悩に直面します。
ることができます。
皮肉な現実でした。
豊国神社