惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㉘)

 

吉田兼見は、本来は兼和といい、天正十四年、後陽成天皇即位にあたり

天皇の諱である和仁を避けて、兼見と改名しました。

その足跡に関しては、彼の残した日記「兼見卿記」により、詳細に知るこ
とができます。

兼見は慶長十五年(1610年)、豊臣秀吉の神廟である、豊国社の社務所
で食事中に突然死去します。

兼見の一生は、吉田兼倶が提唱した唯一神道説を、普及拡大する事に費
やされたといっても過言ではありませんでした。(光秀とその日常⑬)

この吉田神道は、仏教伝来以来、神道本地垂迹説や神仏習合にみられ
るように、仏教の影響下にあり、その一部として組み込まれている状況を
打破し、神道本来の姿に戻そうとする、神仏分離説を唱えました。

現在の日本の姿がそれにあたりますが、神仏習合が一般的であった当時
では、斬新な考えとして秀吉を始め、権力者から支持を得ます。

秀吉の希望で神として祀られたのか、豊臣政権の総意として秀吉を神に祀
り上げたのかは不明ですが、神廟豊国社が創建され、兼見が豊国社別当
となり、その子兼冶が宮司として、そして兼見弟の神龍院梵舜が社僧とし
て豊国社はスタートしました。

天下人秀吉の墓所吉田神道家が預かる事で、兼見の夢は達成された
といえるかもしれません。しかし豊臣から徳川へと時代が移り変わる中で
、兄兼見に代わり別当に就任した梵舜は、度重なる苦悩に直面します。

梵舜は「梵舜日記」を残し、秀吉正室北政所との交流を、克明に記してい
ます。その中で大阪城の秀頼、淀殿とは一線を画した北政所の活動を知
ることができます。

明智光秀の盟友といわれた吉田兼見が、秀吉の神廟で最後を迎えたのも
皮肉な現実でした。


豊国神社
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