惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㉙)

 

慶長十八年、吉田兼見弟梵舜は駿府に赴き、家康に「続日本記」の

写本を献上し、同時に吉田神道を講義しました。

家康は秀吉同様すっかりこの教義に魅了され、更なる講義を所望し
たといわれています。

元和二年、豊臣氏を滅亡へと追いやった家康も病の床につきます。

二代将軍秀忠は、死期の近い父家康の葬儀を、仏式にするか神式
にするか、梵舜、金地院祟伝そして南光坊天海に問います。

秀忠は幕閣と協議の結果、駿府久能山に神式で家康を葬る事を決
め、その責任者に梵舜をあてます。吉田神道の面目躍如たるものが
ありました。

家康は同年四月十七日己刻死去します。家康の柩は吉田神道の作
法どうり、その日のうちに駿府城より運び出され、久能山に埋葬され
神として祀られました。

ここまでは、梵舜の思惑どうりに推移しましたが、この後天海は家康
の神号を、吉田神道により「明神」とするのにけちをつけます。

天海は「権現」の神号を家康に与えるべきと主張します。「権現」と
薬師如来がこの世に現れた姿を指し、鎌倉時代前期に一時期流
行した、神仏合体の教えである山王一実神道を源にしています。

唯一神道である吉田神道が主流であるこの時代の流れに、逆行する
天海の主張に、秀忠、幕閣は唖然とし、強く反対します。
更に天海は、一年後に家康の柩を日光に改葬することを主張します。

梵舜と天海の激論は続き、大勢は梵舜の側に傾きますが、天海の「明
神号は徳川家に不幸をもたらす。豊国大明神の末路をみてみろ。」の
一言で逆転してしまいます。

秀忠、幕閣、祟伝もこの一言に納得してしまい、天海の主張をとりいれ、
山王一実神道により、東照大権現の神号で、日光に改葬することを決
定します。

このことにより、日本の神道界はまたしても神仏習合の世界に逆戻りし
てしまい、吉田神道は衰退していきます。

天海は明智光秀である、との説が根強く伝布する根拠の一つであるの
ですが、光秀死後も権勢が衰えない吉田神道家を叩く天海に、光秀の
鬱憤を庶民は感じていたのでしょうか。


南光坊天海
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