惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㉛)

 

明智光秀家臣団の成立過程およびその構成等は、ほとんど分かって

いません。

しかし個別の家臣の動向については、当時の史料からも知る事がで
きます。

本能寺襲撃時、光秀から信任され、重要な任務をおったのが、明智
満、斉藤利三の二人であることには疑いの余地がありません。

山科言継の子言経の残した「言経卿記」の七月二日の記述には、以
下のように記されています。

粟田口ニ去㉄日ニ、明智日向守首ムクロ才相續、張付二懸了、齋藤
蔵助同前也、其外首三千余、同所ニ首塚ヲ被築了、
今日又明智弥兵次父召捕、生張付ニ同所ニ被懸了

去の後が落字で分かりにくいのですが、七月二日時点で、光秀、利三
の首と胴体はつなぎ合わせて、ハタモノ(張付け)にされていたことが
わかります。言経はそれを見物に行ったのでしょうか。
 
更に同日、明智(三宅)秀満の六十三歳の実父、三宅出雲が召捕られ、
生きたたまま、張付けに掛けられたと記されています。
ハタモノ好きの秀吉らしい、残忍な仕置きの様が窺えます。

光秀が落命してから三週間近い時間の経過があり、その骸を光秀と判
別するのは、猛暑の季節まず不可能だったでしょう。

明智光秀、齋藤利三、そして坂本城で焼死した明智秀満のかわりにその
実父をハタモノとして、秀吉の明智討ち事業は完了しました。

これは又、本能寺襲撃がこの三人を中心に遂行されたと、秀吉が認識し
ていたことを示しています。(光秀とその時代⑱)
 
この後光秀らの骸は、三千の首が投げ込まれたのと同じ穴に,投げ入れ
られたといいます。(光秀とその家族①)

粟田口
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