惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㉟)

 
 

奉公衆の「衆」とは、ひとかたまりの集団の意味であり、「蜷川親俊

日記」の、三年間の記述の中から、御供衆、御相伴衆、与力衆、公
家衆、奉行衆など数多くの「衆」がみられ、その中に、奉公衆に関す
る記述があります。


これと「永禄六年諸役人附」(明智資料⑤)の中から、共通する「衆」
を見ると、御供衆、奉行衆、同朋衆があり、奉公衆はみうけられませ
んが、一番、二番などの記述がそれにあたります。

奉行とは、将軍の命令を執行したり、裁判にあるた人のことで、奉行
人を輩出した一族として、松田氏、諏訪氏、飯尾氏があります。

奉行人は同朋衆から選ばれる事もありますが、多くは、政所執事の伊
勢氏のもと、政所代蜷川氏と執事代松田氏の被官らから選ばれ、実際
には執事代松田氏らが奉行人筆頭として、奉行人の活動を統制して
、所領等に関する訴訟を取り仕切っていました。

奉行人の大部分は、鎌倉幕府以来の法曹官僚の家柄であり、政所内
での身分は固定化しており、この家柄以外のものが、政所寄人とな
ことはありませんでした。

奉公衆とは、その成立過程が、本来の室町幕府の軍事力の基盤であ
る足利一族の有力守護を牽制する為に設けられた、足利将軍家の直
轄軍ともいえるもので、「親俊日記」には、馬廻り衆として記載さ
れることもありました。

幕府の弱体化により、将軍機能は衰退し、これらの「衆」としての、
職制区分は不明瞭になっていき、十三代将軍義輝の殺害により、完
全に崩壊しました。

和田惟政一人にともなわれ、岐阜に転がり込んだ義昭が、信長に伴わ
れ都入りした時、どれほどの幕臣が、義昭のもとに参集したことでし
ょうか。