惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㊴)

 

明智光秀天正七年十月に丹波国を平定します。翌天正八年正月十三

日、丹波に所領を持つ家臣に対して、以下の書状を発給します。


来初秋西国可為御陣旨、被仰出侯之条、当春国役、為十五日普請、
面々知行入立、開作之儀、可申付侯、------------
---ーー聊不可有油断侯、然而百姓早明瞭、西国御陣速可相動
可有覚悟事肝要侯、恐々謹言、
                          正月十三日
                   日向守           光秀(花押)

                      三上大蔵大夫殿 古市修理進殿        
                      赤塚勘兵衛殿 寺本橘大夫殿    
                      中路新兵ロ殿  蜷川弥ロロ殿 


内容は信長の西国出陣に向けて、家臣に知行地内の荒地の開墾を命じ
たものですがここで注目したいのは、連名で記された家臣の名前です。
六人一まとめにしているところをみると、この六人は同じグループに属し
ていることを想像させます。

蜷川殿は、幕府政所代の蜷川氏の一員であると思われます。

又三上殿は政所執事伊勢氏の被官である奉行衆三上氏であり、同じく
古市殿は奉行衆古市氏と関係ある者と思われます。

中路殿は、桂川沿いにあった桂城の城主であった中路氏の一員である
と思われ、「言継卿記」には中路美乃守の名があり、幕府の要職にあっ
たことを窺わせます。

寺本殿は赤塚殿と共に、深草土豪四家として栄えた寺本氏の一員と思
われます。寺本兵庫守は足利義輝の側近であり、三好三人衆により、
室町御所で義輝と共に討ち死にします。その子は足利義昭に近侍して
いましたが、後に信長の配下となります。寺本氏が幕府中枢と関わりが
あったことがみてとれます。

赤塚殿は、幕府との関係性はよくわかりませんが、利三の齋藤家は赤
塚氏より派生し、赤塚親頼が齋藤家初代齋藤親頼となり、その六代後
が齋藤利三となります。

天正八年の時点で、幕府奉行衆、奉公衆の家柄の者の多くが、光秀の
家臣団に組み込まれていたことがこの書状からわかります。

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