惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑬)


吉田兼見明智光秀との出会いは、細川藤孝を介してのものだと思わ
れます。

兼見は吉田兼右の子として誕生します。兼右は少納言清原宣賢の次男
で、吉田兼満の養子となり、吉田家を継ぎます。

細川藤孝を生んだ、智慶院は清原宣賢の娘であり、藤孝と兼見は従兄
弟になり、兼見は吉田神道宗家の当主でありました。

吉田神道は、兼右の曽祖父の兼倶によって興された、唯一神道であり、
伊勢神道と対立していました。

すこし言い方がわるいですが、吉田神道は、現在の新興宗教的な要素
を色濃く持ち、幕府や天皇に取り入り神道界の権威になろうとしました。
吉田家はただの貧乏公家とはかなりちがっていました。

兼見邸の壮大さがそれを物語っています。吉田家は信長の推挙により、
公卿となりましたが、堂上家に列せられたにすぎず、朝廷での地位は低
いものでした。

吉田家は、時の権力者と結びながら、その影響力を拡大していきます。

兼見と光秀の結びつきにも、相互に利用しあう何かがあったのでしょう。


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