2014-06-23 本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑬) 日本史 吉田兼見と明智光秀との出会いは、細川藤孝を介してのものだと思わ れます。 兼見は吉田兼右の子として誕生します。兼右は少納言清原宣賢の次男 で、吉田兼満の養子となり、吉田家を継ぎます。 細川藤孝を生んだ、智慶院は清原宣賢の娘であり、藤孝と兼見は従兄 弟になり、兼見は吉田神道宗家の当主でありました。 吉田神道は、兼右の曽祖父の兼倶によって興された、唯一神道であり、 伊勢神道と対立していました。 すこし言い方がわるいですが、吉田神道は、現在の新興宗教的な要素 を色濃く持ち、幕府や天皇に取り入り神道界の権威になろうとしました。 吉田家はただの貧乏公家とはかなりちがっていました。 兼見邸の壮大さがそれを物語っています。吉田家は信長の推挙により、 公卿となりましたが、堂上家に列せられたにすぎず、朝廷での地位は低 いものでした。 吉田家は、時の権力者と結びながら、その影響力を拡大していきます。 兼見と光秀の結びつきにも、相互に利用しあう何かがあったのでしょう。 吉田神社