2016-01-01から1年間の記事一覧
元亀元年三月、信長は正親町天皇の妹聖秀女王に対し、山城国にある女王 所領大往庄を安堵し、光秀は、秀吉とともに土地の名主らに、遅滞無く年貢 を納めるよう命じています。 信長が天皇のみならず、その係累までにきめ細かく対応していることがわか り、光…
正親町天皇とその朝臣が、もし織田信長という稀有な個性から、天皇とその 朝廷を織田政権内に、名実共に接収しようと働きかけられても、それに抵抗 する術があったとは考えにくい。 天皇の存在の有無にかかわらず、信長は国王への道を歩き始めており、宣 教…
正親町天皇と信長の関係は、義昭追放後変化を見せはじめ、信長は誠仁親王 との交流を深めていきます。 もともと正親町天皇の即位礼は、資金不足の為開催困難となり、父後奈良天皇 の崩御三年後、毛利元就の献金によりとりおこなわれました。 又天皇は、本願…
永禄十三年四月十九日、織田信長は参内し、朝倉討伐の為、「出陣御暇 乞」を奏上します。 正親町天皇からは「薫物」10貝を賜り、その足で御所修理の様子を見舞 い、誠仁親王から結花枝を下賜されました。 信長は翌二十日に出陣しますが、同時期に改元が行…
宇津頼重は、光秀らからの山国荘等の押領停止命令を無視します。 更に信長と義昭の対立が始まると、頼重は義昭に接近し、幕府の御供衆に 取り立てられます。御供衆とは、義輝の将軍就任期には、三好長慶、松永久 秀らが御伴衆としてあり、幕府の中核的組織を…
足利義昭は、兄義輝同様、室町幕府の復権を目指しました。そこには従来からの 天皇、朝廷に対する幕府の軽視政策があり、しばしば新たに義昭周辺に形成され た奉公衆は、公家領等の所有をめぐり、天皇とその側近らと争います。 義昭にはその中核的な軍事力に…
足利氏一門による全国統治が終焉を迎え、その守護制度が下克上の流れの 中で崩壊する中、各地で勃興した戦国大名はそれに替わる、領土支配の正当 性を、朝廷の認可のあるなしに関わらず、律令制官位を名のる事で誇示しまし た。 室町幕府の各種束縛から解き…
足利義満は中国思想をその国政に取り込むことで、天皇の権威を失墜させ 、又足利一門の勢力をそぐことで、嫡流家の独裁体制構築を図りました。 しかし彼の突然の死で、その試みは未完のまま終わります。 義満の死後その策動は彼の子らにより是正されましたが…
永禄三年正月廿七日、正親町天皇の即位礼が挙行されました。 「言継卿記」によれば、 今日御即位未刻始、----傳奏三人也、傳奏三人初例也 と記され 午後二時頃開始されたとあり、伝奏が三人であることは、初めてのことであると 嘆いています。又御手水役…
南北朝内乱の終結をもって天皇、朝廷は、すべての政治的機能を室町幕府に 奪われ、足利将軍ならびに幕府の権威を補完する存在となることで、生き長ら えます。 応仁の乱により、幕府の守護体制による全国統治は終焉を迎え、戦国時 代が到来することで、地方…
弘治三年、方仁親王は、父後奈良天皇の死去により、正親町天皇として即位します が、費用不足の為、即位礼が挙行されたのは三年後でした。 この時の費用の大部分は、毛利元就からの献金によるもので、足利将軍家は即位礼 挙行に対し冷淡な態度をとります。 …