2015-01-01から1年間の記事一覧
天正十年五月廿九日信長は上洛します。この日の天気は「兼見卿記」 内に 自午刻雨降 とあるように、あいにくの雨模様でした。 兼見らは信長を出迎える為、山科まで罷り出ますが、先行する森乱ら 近習衆の出迎え無用の達しにより、数時間待機したのにもかかわ…
光秀の敗因の一つは、準備不足からくる兵員不足であることには 間違いがありません。 秀吉勢に対抗するだけの兵力があれば、山崎戦での勝利が可能 であったでしょう。勝利しなくても相手に相当な打撃を与えれば、 持久戦の中で、毛利氏、長宗我部氏、上杉氏…
価値観を共有することは、偉大なる創造者のまわりに、多くのエピゴーネン を産み出す結果となります。 経済のエキスパートであり、稀有な軍事天才である織田信長は、その帝国 を担う人材を、あらゆる階層から抜擢しその才を活用しました。 光秀、秀吉らはそ…
天正十年六月三日付けの「多聞院日記」にはこう記されています。 今日當國衆ハ悉大安寺・辰市・東九条・法花・寺邊陣取云々、如 何可成行哉 光秀の都における武装蜂起の報せを受けて、大和の国人領主た ちは大安寺等にそれぞれ結集したとあります。 これは、…
天正十年五月十七日、光秀は細川藤孝、筒井順慶らとともに安土を離れ 坂本に帰城します。 「信長公記」によれば 五月廿五日、惟任日向守、中国ヘ出陣ノ為、坂本ヲ打チ立チ、丹波 亀山ノ居城ニ至リ参着 とあり、光秀は廿五日に、丹波亀山城に移動しています。…
「信長公記」によれば、信長は秀吉からの高松城攻めの一報をうけ 此等ノ趣聞コシメシ及バレ、今度間近ク寄リ合ヒ侯事、天ノ与フル トコロニ侯間----御動座ナサレ、中国ノ歴々討チ果タシ、九州 マデ一篇ニ仰セツケラルベキノ旨、上意ニテ、堀久太郎御使-…
天正十年四月二十四日、織田信長は細川藤孝、一色五郎に対して 、秋に予定していた毛利領への侵攻戦を、羽柴秀吉からの一報が入 りしだい、自ら出陣し敢行する旨伝え、軍備を整え待期するよう命じ ます。 又その詳細については惟任光秀より伝達させるとあり…
「信長公記」内の記述には、天正十年三月三日 中将信忠卿、上ノ諏訪表ニ至ツテ、御馬ヲ出ダサレ、所々 放火。抑、当社諏訪大明神-------神殿ヲ初メ奉 リ、諸伽藍悉ク一時ノ煙とナサレ、御威光、是非ナキーー とあり、織田信忠が諏訪大社上社本宮を焼…
天正十年三月二十八日、諏訪に在陣中の信長のもとに、甲斐を制圧した 信忠が挨拶の為到着します。 信長はこれにあわせて、傘下の軍を解散させ、国元への帰陣を命じます。 「信長公記」によれば 駿河・遠江ヘ御廻り候テーーーーー諸卒是レヨリ帰シ申シ、頭バ…
天正十年三月八日、吉田兼見は朝廷より、出陣した信長の為、戦勝祈祷 を命ぜられ、即日修行にはいります。 廿三日結願し、兼見は鈴鹿喜介を使者として、森乱宛に書状を出します。 就御進發、御祈祷義爲、禁裏被仰出、十七日致修行、勝軍治要之御祓 進献上候…
信濃に入った織田軍の元には、武田氏から離反した土豪らが集まりました。 「明智軍記」内には、この時光秀が「我々も苦労した甲斐がありました」と 信長にむかい言ったとあります。 これを聞いた信長は逆上し、森乱に光秀の額を鉄扇で打たせたとあります。 …
「兼見卿記」は、甲斐出陣前日の近衛前久の様子を、このように記してい ます。 参近衛殿、明日之御用意以外御取乱也、可被預下御馬之由仰 畏之由申入了 近衛前久の屋敷を訪問すると、明日の出陣の用意がうまくいかず、取乱し た状態であったと述べ、馬を預か…
天正十年三月五日の「兼見卿記」の記述には 今朝御出馬治定也、路次中數千騎、惟任向州多人數--- とあり、安土より出陣する信長軍が、数千騎の軍容であったと伝えています。 これは兜を着用した騎馬武者の数で、数千を二千から五千と考えると、それ に従…
信長は、すでに天正四年の段階で、右大臣でありながら、正親町天皇が 三条西実枝に宛てた女房奉書の袖に、信長の朱印を捺印しています。 天皇の命令を信長が担保しているもので、勅命が信長の命令と重なり、 天皇を頂点とする朝廷に対する、信長の意思を感じ…
織田信長は、甲斐へ向け先発している信忠宛に書状を出しています。 信忠は武田方の動向を逐次安土に報告しており、その返事になるの ですが 廿九日注進、今日三、到来、披見候、仍於駿州穴山依謀反、四郎 甲州北退之旨ーーーーーーーー と、穴山梅雪の家康へ…
「信長公記」によれば 信長公信濃国ニ至リテ御動座ナサルベキニツイテ 条々 御書出 大和ノ人数出張ノ儀、筒井召シ連レ罷リ立ツーーーーー 摂津国、父勝三郎留主居候テ、両人子供、人数ニテ出陣 中川瀬兵衛出陣スベキ事 多田出陣スベキ事 上山城衆出陣ノ用意…
山梨県身延市にある、臨済宗妙心寺派寺院南松院に伝えられた、甲斐恵 林寺住職快川紹喜の遺墨である、といわれています。 内容は甲斐城内の淑女君に対して、蘭渓宗秀の法名を与えた際その由来 を説明したものですが、この淑女君は勝頼正室北条夫人ではないか…
天正十年二月三日、信長は、甲斐武田氏攻略軍の進路と分担を決定します。 信長には優先事項として、西国毛利氏との主力決戦が念頭にあり、前年より 準備に奔走しています。 織田軍最精強の羽柴軍と惟任軍そして北国にある柴田勝家傘下の部隊は、 戦闘部隊と…
天正十年正月七日の「多聞院日記」には 安土ヘ各礼ニ被出、諸大名小名悉以十疋ツニテ一礼在之云々 と記され 同惣礼布衣ノ躰云々、是ハ當春頓而可有出陣之間、無用之過 善、不入事也ト とあるように、安土城に諸大名が百文を持参して登城しました。 さらに絹…
天正九年十二月三日、羽柴秀吉は摂津国茨木城主中川清秀宛に、書状 を出しています。 清秀は荒木村重の一族ですが、荒木氏滅亡後も巧妙に生き残り、この頃 秀吉と清秀は義兄弟の契りをかわしていました。 あまり好感のもてる人物ではないのですが、その戦上…
天正九年八月廿日、信長は羽柴秀吉に書状を送ります。 秀吉は因幡鳥取城を包囲攻撃中であり、信長は城内の餓死者についても触 れ、裏切り者は討ち果たせと厳命しています。 そして毛利本軍の進出に対しては 後巻事仕候幸事候、先書如申聞、惟任・長岡以下申…
「多聞院日記」内、天正九年八月十九日付けの記述には 惟任日向守郡山城普請爲見舞、今朝早々成身ーーーーー とあり、光秀が郡山城普請見回りの為、大和国へ来ていたことがわかり ます。翌二十日の記述には 今暁惟任被歸了、無殊儀珍重ゝゝ とあり、当日光秀…
天正九年、光秀は戦いに明け暮れた日々が一段落し、丹波経営に 注力しています。 六月二十一日には、城塞破却の命に従わない土豪を成敗した旨を、 新たに明智家臣団に組み入れられた出野氏、片山氏に伝え、家臣 団の統制を図っています。 丹波各地に城代とし…
都で開催された馬揃の奉行職を終えた光秀は、丹波国へ入ります。丹波 国では、反抗した国人衆は残らず殲滅され、闕所地には明智家重臣が城 代に任ぜられ、丹波入りをしていました。 八上城には明智光忠、黒井城には斉藤利三、福知山城には明智秀満が 入り、…
永禄十年(1567年)、正親町天皇は美濃国を支配下においた信長 に対して、尾張、美濃にある天皇領の回復や御所の修繕費そして誠 仁親王の元服費用の捻出を要請します。 これが天皇と信長の長い付き合いの始まりでした。 翌年信長は足利義昭を奉じて上洛…
天正九年十月廿九日、信長は下野国の豪族皆川広照宛に朱印状を 発給しています。 皆川氏は小山氏の流れを汲む名門であり、広照は堀秀政を取次とし て名馬を信長に献上しました。 馬一疋到来候、誠遼遠之懇志、悦喜無他候、殊更葦毛別而相叶 心候、馬形・乗以…
天正九年正月六日、細川藤孝は兼見邸を訪問し、その後坂本城の光秀 のもとに赴きます。 長岡兵部大輔来、--今日於坂本惟任日向連歌興行之由雑談ーー及 深更出京了 と「兼見卿記」にあるように、光秀の連歌興行に参加するのが目的でした が、藤孝の近江滞在…
天正九年三月一日、正親町天皇は、上臈御局(花山院家輔娘)に勅 書を持参させ、信長のもとに派遣しました。 信長を「左府二被仰出由」、すなわち左大臣に任じるとの勅定でし た。(立入左京亮入道隆佐記) 信長は天正六年四月、右大臣を辞しており、その折…
天正八年八月、信長は佐久間信盛、信栄(定栄)父子に自筆の覚 書を与え追放します。 抗弁する術もなく二人は高野山に追いやられますが、織田家にとり 最重要な事柄であり、秘密裏に遂行されました。 佐久間信盛追放劇はすでに詳しく述べています。(光秀と…
天正四年正月、信長は安土城の築城を家臣に命じます。前年十一月 には、織田家の家督を信忠に譲り渡し、岐阜城から、茶道具のみを持 参して、佐久間信盛の屋敷に移っています。 信長の安土城築城への意気込みが伝わってきます。 津田坊(織田信澄)は、信長…