2014-01-01から1年間の記事一覧
「信長公記」によると 信長公志賀ノ城中佐山ニ御居陣ナリ、叡山西ノ麓、古城勝軍拵ヘ 津田三郎五郎、三好為三、香西越後守、公方衆相加ヘ二千バカリ 在城ナリ とあり、信長ら主力は、浅井・朝倉勢の後詰に備えて、叡山東麓に展開 し、光秀ら奉公衆は織田軍の…
光秀は、摂津より帰還後、穴太要害で佐々成政らとともに、浅井・朝倉 勢と対峙しますが、浅井・朝倉勢が比叡山に籠ったので、ニ日後の九 月二十六日都へ戻り、洛北で岩倉山本氏らとともに、防衛線を構築し たと考えられます。 北白川あたりまで、一揆勢は押…
三好三人衆の勢力を畿内から駆逐すべく信長は摂津へ軍を進め、義昭 も兄義輝殺害への報復を胸に刻んでの出陣でした。 しかし、信長の意図に反して、本願寺勢を敵にまわすこととなり、顕如の 呼びかけに応じた、延暦寺と浅井・朝倉勢は都にせまり、信長の後方…
元亀元年八月、三好三人衆は再度義昭・信長に対して挙兵し、信長方 である松永久秀や三好義継らと戦闘状態に突入しました。 浅井・朝倉勢を姉川で打ち破り、岐阜へ帰還していた信長は、急遽都へ 入り、兵を整え八月二十六日に摂津天王寺に着陣しました。 こ…
光秀の時代においても、戦闘の根幹には兵士の相互協力があり、 攻撃に対して組織的防衛を行うには、日頃からの意思連繋が欠く べからざる要因であることは現在と変わりません。 足利義昭の上洛後の拠点である本國寺攻撃には、三好勢は六千 の兵士を動員した…
「言継卿記」の永禄十一年二月八日(1568年)付けの記述に 左馬頭源朝臣義榮宣爲征夷大将軍、兼可聴禁色 とあり、この日足利義栄が十四代征夷大将軍に就任しました。 義栄は平島公方足利義維の子であり、十三代将軍足利義輝の 従兄弟にあたり、義輝を殺害し…
足利義昭を奉じて上洛した信長は、朝倉家当主義景に都への上洛を 要請します。 義昭を手中に収めた信長が、室町幕府の名目的権威を利用し、越前 朝倉氏を、自分の影響下におこうとしたこの試みは、誇り高い朝倉氏 には受け入れられないものでした。 これを義…
土岐頼武は美濃守護土岐政房の嫡男で弟に頼芸がいました。政房が 家督を弟の頼芸に継がせようとした為、美濃国内は頼武、頼芸両派に 分れ争います。 最終的には頼芸派が勝利し、頼武は越前浅倉氏を頼り亡命します。 この後、頼武は朝倉氏と縁続きとなり、政…
織田信長と足利義昭の関係は、義昭の上洛一年後の元亀元年には はやくもぎくしゃくし始めます。 それぞれの思惑が乖離しており、義昭は選択する相手を間違えたと やっと気づいたというところでしょうか。 信長はこれに先立つ三年前の永禄九年には、前年の兄…
元亀元年六月、織田・徳川連合軍は、近江姉川にて、浅井・朝倉連合 軍と激突します。 相互の兵力の実数は不明ですが、共に一万を越す大規模な戦闘であっ たことは確かなようです。 徳川勢の参戦をみても、地の利に劣る織田方が圧倒的な優位にあった とは思え…
永禄十二年正月五日、三好三人衆は足利義昭のいる六条本國寺を、包 囲攻撃します。 「信長公記」のなかに、防戦する面々の一人として、光秀の名が記されて います。 「明智軍記」によれば、この戦いで光秀は、得意な鉄砲を操り、敵将薬師 寺貞春を撃ち倒した…
戦国武将は、刀の試斬を生身の人間で行う事が一般的であり、殺人 行為に習熟するのが目的でありました。 木下延俊は高台院の甥で、小早川秀秋の兄にあたりますが、彼の慶 長十八年の行動は、祐筆らにより克明な記録が残されており、武将 の日常を、詳細に知…
「信長公記」によると、信長は 十六、七、八マデハ、別ノ御遊ビハ御座ナシ。馬ヲ朝夕御稽古、 又三月ヨリ九月マデハ川ニ入リ、水練ノ達者ナリ。其ノ折節、 竹鑓ニテ扣キ合ヒヲ御覧ジ、 とあり、十八ぐらいまでは、連歌などを嗜む事無く、朝夕乗馬の稽古 をし…
信長は太陽であり、光秀はその光を受けてはじめて輝く、暗闇 を照らす月であったかもしれません。 光秀には、信長を討ち果たさなければならない理由と、確固た る信念がありました。 しかし、信長が消えた世界は、輝きを失い未来への指針を喪失 し、光秀自身…
信長が上洛の折滞在した光秀の館は、都のどこにあったのでしょうか。 元亀三年正月六日、吉田兼見は普請中の坂本城を訪れ、明智光秀と 面会します。 雪降、明十於坂本而普請也、爲見廻下向也 とあり、雪の降る寒い日であったようです。城の完成後、光秀は住…
天正九年四月十七日、吉田兼見はその日記にこう記しています。 自丹州宇津惟任日向守書状到来、當城堀井、河原者、相添 此者急度可罷下之由申来、即申付、差下返状、美濃柿百到来、 光秀から、丹波宇津城で井戸を掘るので、河原者を派遣して欲しい との内容…
元亀元年七月四日、信長は上洛します。 「兼見卿記」によると 申刻信長上洛、馬三騎俄入洛也 とあり、馬廻り三騎とともにだしぬけに上洛したようです。信長らし い行動ですが、浅井、朝倉と一戦交えている最中で、無用心きわ まりない話です。兼見が驚いてい…
元亀二年九月三十日、信長は、寺社や惣中に対して割符を作成し、 公武御用の為、年貢米の上納を指示します。 公家領の多くは、寺社や国人領主らにより押領され、彼らの生活を 圧迫していました。この年叡山を焼き討ちした信長は、寺社等への 締めつけを強化…
光秀の時代、囲碁は多くの武将に好まれ、織田信長も愛好家の一人で した。その影響か、村井貞勝には囲碁にまつわる記述が多く見られ、「 兼見卿記」の中でも、吉田兼見との対戦の様子が数多く残されています。 天正四年四月十二日、 向村長、將碁 とあるよう…
天正七年九月十一日信長は上洛します。これは摂津への出陣に備えての 上洛でしたが、吉田兼見は「兼見卿記」の中の九月二十六日付けで、こう 記しています。 惟任姉妻木在京之間罷向、双瓶・食籠持参、他行也、渡女房館皈、 向村長、將碁、 光秀の姉が都にい…
明智光秀本人の名前が、信長上洛以前、足利将軍家関係あるいは奉 公衆、奉行衆として、資料の中に記されることはありませんでした。 しかし、土岐明智氏が奉公衆としての家格があり、それが世襲されて いる事を考えれば、信長上洛以後の義昭のもとでの活躍を…
奉公衆の出自は、文安元年(1444年)から明応三年(1494年)まで の50年間に限ってみれば、最も多いのは土岐一族で、明智氏、石谷 氏、小里氏、原氏、揖斐氏など十四氏を確認できます。 続いて近江の佐々木一族が多く、井尻氏、塩谷氏、大原氏、吉田氏な ど…
明応二年細川政元は、奉公衆を引き連れて、河内の畠山基家を討伐に向 かった十代将軍義材に対し、クーデターを敢行します。 この企てには、日野富子も参画し、政所執事伊勢貞宗の指示で、将軍傘 下の軍勢は、義材を残して都へ引き揚げます。 この後の顛末は…
六代将軍足利義教は、父義満が創設した足利将軍家直属の軍事力で ある奉公衆制度を拡充させ、将軍権力の基盤にすえました。 兄足利義持は、将軍職を子の義量に譲った後も、政冶の実権を保持し 続けますが、溺愛した子義量は若くして亡くなり、義持は後継者を…
九代将軍足利義尚の時代には、まだ大軍を率いて遠征できる実力を 幕府は保持していましたが、十三代将軍足利義輝の時代になると、長 引く戦乱の影響などで、その権威は形骸化していました。 義輝は、将軍の権威を復活すべく画策し、政所を牛耳る伊勢氏を討伐…
㈗ 近江へ向かった義尚の軍は、錚々たる陣容であったことがわかります。 明智の名は四番衆の中にあります。 長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到
奉公衆とは、足利将軍家に直属する軍事組織であり、足利将軍の被官であり 、将軍に近侍し、その警護にあたり、戦いがあれば馬廻りとして、軍の中核を 形成しました。 九代将軍足利義尚は、奉公衆をひきつれ、守護勢力の助力をえて、六角氏の 討伐に向かいま…
天正八年正月十三日に、光秀が家臣六人宛に発給した書状を再度見て いくとその中に 面々知行ヘ入立 とあります。(四人の天下人㊴) これは、めいめい知行地へはいりこんで との意味であり、彼らが光秀 より敵方から没収した土地を、所領として与えられた事…
丹波国には波多野氏、赤井氏、内藤氏等の有力な国人領主が存在し 、宍人城を拠点とする小畠氏もその一つでありました。 小畠氏は細川氏の被官としてこの地に勢力を拡大しました。 その後は三好氏、波多野氏に従属していましたが、信長が義昭を奉じ て上洛す…